norinori53’s diary

日々感じる53(ゴミ)な事

ありますか?大切な人の命日

35歳、夢なし、趣味なし、希望なし。

 

 

 

 

 

 

今このブログを書き始めているのは7月14日。

 

2020年7月14日。

 

最初に書くが、暗い話でもなく、暗くなろうとしているわけでもない。

 

僅かかもしれないが、このゴミブログに目を通していただいている方々にも暗い気持ちになっていただこうとかは微塵も思っていない。

 

ただの独り言。

 

 

 

 

 

 

会社に出社。

 

仕事と呼ぶのも痴がましい内容の仕事を行う。

 

その業務の中で日付をかく作業が発生。

 

7月14日。

 

この日にちにピンときた。

 

ん!?

 

7月14日!?

 

そうだ。

 

友人Yの命日。

 

小学校に入学した時からの、7歳からの友人Yの命日。

 

小中高と同じ学校に通った友人だった。

 

僕の人生によくある事だが、今でも付き合いのある友人は知り合ってからずっと付き合いが続いているわけではない。

 

この友人Yも学生時代ずっとつるんでいた訳ではなく、高校を卒業してからも1年に1回会うか会わないかぐらいになっていた。

 

そんな僕の学生時代、大学4年生の時にふと1本の電話があった。

 

「お酒飲んで帰れなくなったから迎えに来てくれない?」

 

そんなお願いをするようなタイプではなかったので驚いた。

 

丁度電話をもらった時は当時の彼女と一緒にいたが、迎えに行こうという話になったので車を走らせた覚えがある。

 

どうやら色々訳ありで帰れなくなったらしい。

 

その時元々迎えに行く予定だった友人Yの彼女が行っていたら、他の人が迎えに行っていれば、その後の付き合いは違うものになっていたかもしれない。

 

「たら」とか「れば」とかは個人的には嫌いだが、人生ほんの僅かなズレで何が起こるかわからない。

 

つくづくそう思わされる。

 

と、その迎えに行ったのがきっかけで遊ぶ回数が増え、社会人になっても度々遊んだりお酒を飲むようになった。

 

そして数年前。

 

突然の病気で友人Yは他界した。

 

まだ若かったのに・・・。

 

こんな事をいうと冷たいヤツのように思われるかもしれないが、人間生まれると必ず死ぬ。

 

これは確実に決まっている。

 

もちろん80歳のおじいちゃんがなくなっても、90歳のおばあちゃんがなくなっても悲しい。

 

命を失うという事はもちろん悲しい事。

 

僕だって死ぬのは怖いしまだ死にたくない。

 

そして自分に関わってくれた人がなくなるのは本当に悲しい。

 

いや、実際はこの「悲しい」なんて言葉の中に多くの意味が詰め込まれているが、僕の乏しい表現力では簡潔に述べるのは難しいだろう。

 

しかし、先述したように死ぬ事は人生の中で必ず起こる事。

 

なので、高齢者がなくなった時は、

 

「本人にとって十分生きたのかなあ」

 

そう思う。

 

そりゃもちろん長く生きたい人はたくさんいるとは思うが、80年生きたら色んな経験をして、少しは満足できた人生だったのかなあとも思う。

 

生きて満足だったかどうかなんて本人が決める事だから他人がどうこう思うのはおかしいが、そういう意味では若年層の人がなくなるのは他の要素も加わって辛いのではないだろうか。

 

命が経たれるのと同時に、「もっと色々したい事あっただろうになあ」と思ってしまう。

 

突き詰めると「色んな経験」の尺度も本人が決める事で他者のエゴになるが、そこは目を瞑っていただくとして。

 

僕の友人は現代日本人平均寿命よりもかなり短くして他界した。

 

まだまだしたい事あったろうになあ、一緒に色んな経験したかったなあ。

 

何度思っただろうか。

 

幼少期に出会って長い間時間を共有し、時間だけでなく、たくさんの思い出がある。

 

今でも亡くなった実感がなく、ひょっこり現れるのではないかとも思うぐらい。

 

そんな僕の友人は朝日が好きな雨男だった。

 

一緒に遊びに行くと雨が降る。

 

しかし、僕は晴れ男(自称)なので途中で晴れる。

 

遠出する時などはそんな現象が起きていたのでネタにしていた。

 

完全に非科学的な現象なので、あくまでネタではあったが。

 

そんな友人Yの命日。

 

昼間は雨が降ったが、夕方から雲間から光が差していた。

 

そして夜空はキレイだった。

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